食事の時間をゆっくり楽しむ ①品数を増やす
食事の満足度を決めるのは、食事の量ではなく時間ではないか、と最近思うようになりました。
一人暮らしを始めた当初は、今思うと不思議なくらい食欲旺盛でした。
ご飯をどんぶりいっぱいよそってみたり、パスタをいつもより多く茹でてみたり、お弁当に味噌汁をつけたり。きっと、食べないと死ぬ、みたいな生存本能が働いていたんだと思います。とにかく腹をいっぱいにすることを目的に食事量が増えていきました。
ある時点で「自分の様々な不調は必要以上に食べていることで起きているのでは?」という仮説が自分の中で立ち、実際に食事量を減らしたら調子が良くなったので、今は前に比べたらだいぶ少食になっています。
そして今は、以前のエントリで上げたように、朝昼少なめで夜は好きなだけ食べる、という食生活に落ち着いているのですが、
今度は、夜に好きなものを好きなだけ食べても満足できない、という状態に陥りました。通常の食事を十分食べたあとでも必要以上にお菓子に手が伸びてしまうのです。
これはなんとなくダメな気がする、と思いながら過ごしていたときに、たまたまお坊さんの食事について知る機会がありました。
このPDFには、永平寺で修業をする僧侶の毎日3食分の献立が給食のメニューのように載っています。
たとえば、1998年8月23日のメニューはこんな感じ。
- 小食(朝):白粥(胡麻塩、沢庵)
- 中食(昼):麦飯、汁(馬鈴薯、茗荷)、勝皿(コロッケ、春巻き、キャベツ)、沢庵
- 薬石(夕):茶飯、つぎ汁(焼き豆腐、むすび昆布、里芋)、小皿(白花豆、一夜漬け(茄子、胡瓜、人参))
朝食こそお粥だけのシンプルなものですが、昼と夕は3品以上あって、しかもコロッケや春巻きなど、油っこいメニューもあります。しかも翌24日を見てみると、夕食に野菜が数種類入ったカレー汁が出てきています。結構俗世に近い?!
そのバリエーションの多様さもそうですが、一番の発見は「品数」です。これまで僧侶の食事というのは、その日を生きる最低限の分だけを摂取する(薬石とは本来”何も食べない”という意味だそうです)ものだと認識していました。でも、実際には栄養補給を越えた、楽しみとしての食事の時間が、永平寺のような修行の場にもあったのです。
そして気づきました。品数を増やすことで食事の時間が充実するのではないか、ということに。
ラーメンやカレーといった一皿で完結する料理は、どんなに量が持ってあったとしても「一品しかない」という点で満足度はそこまで高く感じません(ラーメンライスを頼む人はお腹だけでなく気持ちも満たそうとしているのかもしれない、とふと思いました)。
この前の週末、白菜・豆腐・鱈などを入れたヘルシーな鍋を作りました。それをものすごい勢いで平らげましたが、そこにあんまり幸せはありませんでした。鍋は本来、〆までのプロセスをゆっくり味わうもので、さらにそこには複数の副菜が並んでいるのが理想で、決して一直線に腹の減りを満たそうとしてはあかんのです。
一汁一菜もたしかに素敵なコンセプトで、それに近いことを実践していた時期もありました。でも料理を作る時間も食べる時間も楽しみたい。なので、忙しくないときはもう少し品数を増やしてみようと思うに至りました。副菜的なものを追加することで、お菓子の食べすぎを防ぐ効果もあると思っています。
そして、食事の時間の流れをスローにするもうひとつの鍵が「お酒」。これはまた次の回に。
ちなみにこのエントリは鳥貴族で下書きしていました。カウンターに一人腰掛け、ホルモンねぎ盛りポン酢を少しずつ食べながら。
2品目のささみ塩焼きが来た時点で、それまで若干速かったペースがいい具合に落ち着いて、ブログを書くのに程よい酔いも回ってきました。ちびちびやる、とはこういうことですね。
この日は、トリキは1時間弱で切り上げ、コンビニに寄って冷凍汁なし担々麵を買い、帰宅して〆を執り行いました。デザートにバニラアイスも付けました。約2時間半の幸せな時間でした。